創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

座談会の現実

こんにちわ、トウガラシです。

きょうは創価学会の伝統行事・座談会について書いてみたいと思います。

創価学会によれば、座談会とは、様々な年齢や職業の会員、また会員以外の友人が集いあって体験談や質問会等を行ない、互いに信仰を深めあう場であり、それによってそれぞれが職場や家庭などでの苦難、宿命を乗り越えてゆき、そうして人生を深めることによって社会の変革を目指してゆく場であると規定しています。

言ってることはなるほどと思いますが、現実はどうかと言えば、結局、座談会とは会員に財務などに多額の寄付をするように、また、選挙で公明票をたくさん取るように誘導するのが目的であり、また、新たに外部の友人を創価組織に入会させて更に戦力と資金力を確保してゆく場であると言えるでしょう。

座談会の和気あいあいとした雰囲気が素晴らしいなどと絶賛してる人もいますが、活動家になってしまうと、座談会だけが創価の全てではないということがわかるようになるでしょう。

座談会で和ませておいて、活動では吊るしあげられ怒鳴られ詰められ人権さえも無視されることになります。

座談会だけ見て「創価は素晴らしい」などと絶賛する人間にはぜひ活動にも全力投球してもらいたいものです。その上で「創価は素晴らしい」と言えるかどうか見てみたいものです。

それに、その座談会も、戦後復興期の殺伐とした時代には人間関係に潤いをもたらす場として、その目的はともかく、それなりに存在価値はあったのかもしれませんが、現在のようにインターネットがコミュニケーションの場として利用できる時代になると、もはやその存在意義も薄れてきているのではないでしょうか。

私が座談会に最後に参加したのはもう数年前になります。

父親が他界した時、私は本意ではありませんでしたが、学会葬で学会員が奔走したので、その義理から座談会に何回か出席しましたが、一口に言ってあれでは老人ホームの慰問会みたいなものです。

とにかく青年部が1人も出てきませんし、婦人部でもヤングミセス世代も顔を見せません。出てくるのは年寄りばかりです。

若い世代と言えば老人が連れてくるまだ小さい孫くらいのもので、その親は出てきません。

何しろ、座談会の企画内容が老人ホームの慰問会のようなものですから、あれでは若い人は出てこなくなるでしょう。もう青年ではない私でさえも、あの内容にはうんざりさせられたものです。

このような現状は それぞれの組織によって違いがあるのかと思っていたのですが、インターネットで見てみると、どこも似たり寄ったりの状況のようです。

つまり、それだけ創価は人材不足ということであり、その座談会そのものが時代にそぐわなくなっているからだと思います。

そして何よりも、創価学会自体がまともな宗教ではなく、その和気あいあいとした座談会さえもが会員から金を搾り取ることと選挙での票集めや新たな会員集めにこき使うという下心が隠されたものでしかないわけですから、もはや存在意義は全くないと言ってよいでしょう。

 

また、インターネット以外で人と人とのコミュニケーションの場というのは何も創価の座談会でなければ得られないということはありません。

私は母親の介護のため田舎に帰ってきて、それまでほとんど行ったことがなかった野菜市場に買い物に行くようになりました(それまではスーパーにばかり行ってました)が、その市場では昔から私の親と親しかった数人の老婦人が今でも元気に野菜を売りに来ています。

この人たちは学会員ではないですが、良い人たちばかりで、私はこの市場に買い物に来た時、時間があればしばらく世間話などしていくのですが、創価の座談会よりもよほど心が和みます。

創価の座談会がいくら和気あいあいとした雰囲気であっても、その目的は財務や選挙や折伏やらの成果を上げさせることに誘導することなのですから、心の底から和むことはありません。

やはり心の片隅にでも、何とかがんばらなければとか成果を上げなければなどという強迫観念にかられてしまうものです。

そういう心の状態が創価が言う「絶対的幸福」などとは言えないでしょう。

市場で創価とは無関係の野菜売りの老婦人たちと他愛のない身近な家庭の話などしている方がよほど幸福な気分になるものです。

創価学会にしか幸福はないなどということはないのです。

いずれにしても、座談会の現状を見れば創価学会の衰退ぶりが分かるというものです。