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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

御書根本ではない創価の題目

こんばんわ、トウガラシです。

しばらく記事の更新ができませんでしたが、少し時間ができたので、書いておきます。

 

今は創価の組織から離れているので分かりませんが、昔活動家だった頃は題目表というものが配られていました。
塗り絵のようなマス目が書かれてあって、1つのマス目がどれくらいの時間か忘れましたが、一定時間唱題した分、マス目を塗りつぶしていくというものでした。
これなんかは今から考えれば、数にこだわる創価学会らしい発想だと思いますね。
創価学会ではよく「百万遍の題目に挑戦」とか「一千万遍の題目で宿命転換」とか言ってますが、何か願い事があれば百万遍、何かの目標があれば百万遍というように、だいたい百万遍の題目がひとつの目安になってましたね。
なぜ百万遍なのか、そこのところがはっきりしませんが。
とにかく数多く題目を唱えれば願いが叶う、目標を達成できるというのが創価学会の考え方です。
しかし、それも「御書根本」というのなら、そういうことが御書に書かれてあるのかというと書かれてないのです。
御書のどこにも「百万遍の題目を唱えなければ願いは叶わない」とか「数多く唱題しなければ宿命転換できない」などとは書いてません。
それどころか、御書には「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と書かれていますし、創価学会でもよくここの一節を引いて題目にどれだけすごい功徳があるかということを強調しているくらいです。
それなのに、幹部は口を開けば「もっと題目唱えよ」「もっと題目唱えないと願いは叶わないぞ」と言っているんです。
どっちなんだ? と言いたくなりますね。

思うに、題目の数の多い少ないで願いが叶うか叶わないかなどと考えることが間違いなのです。
宗祖の教えはそんな底の浅いご利益信仰にあるのではないと思いますよ。
そう言えば、創価学会では題目を早口で唱える傾向にありますが、これなどもなるべく数多く唱えて福運をたくさん積もうという考え方から来てるんだと思います。
これでは仏の境涯に近づこうという仏道修行ではなく、数多く功徳をもらおうとする乞食信仰になってしまうでしょう。
学会活動家に非常識な人間が多いのもこんなところに原因があるように思いますね。
数にこだわらず、時間にこだわらず、ゆったりと自分の心が落ち着くように題目を唱えればよいのではないでしょうか。

創価学会日蓮教学を「仏法哲学」などと言ってますが、それならこれまでの迷信的なご利益信仰から脱するべきだと思いますがね。