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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

最後のご挨拶

トウガラシです。

今年ももうすぐで終わりますが、当ブログも今回で終了することにしました。

その理由としては、これまで「現役学会員が創価学会の現実を語る」というコンセプトでブログを書いてきましたが、

創価を退会してもう現役学会員ではなくなったということもありますし、

書きたいと思っていたことをほぼ全部書いてしまい、書くことがなくなってきたということもあります。

また、引越し先での新しい生活のため実生活が忙しくなり、ブログ更新もできなくなるということもあります。

それで年末の辺りが時期としてはキリがいいと思い終了することにしました。

それに、これまでのブログ記事を振り返ってみると、

創価を美化して「創価は素晴らしい!」「創価こそ正義!」と主張している創価のネット活動家に対して、つい熱くなってしまった面がありますが、

考えてみればネット活動家の歪んだ考え方に共感するのは、

やはり同じく歪んだ考え方をしている学会員くらいのもので、

そういう歪な考え方の人間はそんなにいないものです。

過激さを売りにしているネット活動家ブログのコメント欄に共感の書き込みをしている常連もごく限られた人数しかいないようです。

ネット閲覧者の多くはそんな歪んだ考え方を表明している過激なネット活動家のブログ記事を見ても共感するどころか、

「こいつはイカレてるんじゃないのか?」とか「まともじゃないな」としか思わないでしょう。

なので、そういうネット活動家がいくらきれいごとばかりを書いて創価を賛美礼賛していても、

その主張に共感して「創価は素晴らしい団体のようだ」とか「自分も創価学会に入ってみよう」などと思うような人はほとんどいないと思います。

そういうネット活動家には勝手に言いたい放題言わせておけば、

創価というところは過激で危険な連中が集まっているところなんだという認識が広まるだけなので、

放置していても創価は衰退へと向かうしかないでしょう。

つまり、ネット活動家自身が謂わば創価を貶めるための活動をしているようなものなんですから、

私が敢えて批判をする必要もないということになります。

それに私もいつまでも創価のネット活動家の相手をしてやってるほどヒマではないのでここで終了することにしました。

これからはネットを見る時間はあまりないと思いますが、

たまに『対話を求めて』にコメントすることはあるかも知れません。

それ以外ではネット上に書き込みすることはないと思います。

それから、このブログはこのまま残しておきます。

強制削除されない限り、消えることはないでしょう。

では、これまでお付き合いいただきありがとうございました。

私はこれから自分の人生を生きて行きます。

 

 

 

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日蓮正宗について

以前の記事で日蓮の思想そのものにカルト性があると書きましたが、

その日蓮のカルト性が最も全面的に出ているのが創価学会顕正会だと言えます。

アンチ創価の立場の人の中には創価顕正会だけでなくその母体であった日蓮正宗もカルトだと言ってる人もいますが、

私は日蓮正宗をカルトとまでは思ってません。

教義の面では確かにカルト的なところもありますが、

実際の行動面ではカルトとまでは言えないのではないかと思っています。

それは日蓮正宗の信者の増え方を見れば分かると思いますが、

日蓮正宗は、戦後に創価学会が強引な折伏戦を展開するまでは、信者数の少ない弱小教団でした。

それは、それまでは創価のような強引な折伏を行なってなかったからだと考えられます。

もちろん法華講の中にも個人的に強引な折伏を行なった信者もいたのかも知れないですが、

創価のような組織的な折伏までは行なってなかったのではないかと思います。

だから信者数が伸びてなかったんでしょう。

 戦後、創価折伏大行進によって日蓮正宗の信者が増えたといっても、

その内訳はほとんどが学会員だったわけです。

なので、日蓮正宗はカルトとまでは言えないのではないかと思います。

ただ、私は日蓮正宗を特別正しい宗教とは思ってません。

他の仏教諸宗派と同じレベルの宗教だと思っています。

もし創価脱会者が日蓮正宗に行きたいと言えば別に止めはしませんが、特に勧めもしません。

ネット上では法華講の人のブログで、日蓮正宗がいかに清浄無垢な教団であるかということを強調しているところが見られますが、

それは理想論だけの主張ではないかと思います。

私が購読しているこちらのブログ⇒ 正宗系観察日記

に、日蓮正宗の実態が紹介されています。

単なるデマや作り話ではなく、事実としての裏付けのある記事で、

私も今まで知らなかったような日蓮正宗の歴史が綴られています。

これを見れば、日蓮正宗は決して清浄無垢な教団とは言えないでしょう。

法華講の人は自分が信じる宗派を非の打ちどころのない清らかな教団だと信じたい気持ちは分かりますが、

事実は事実として知るべきだと思います。

例えばキリスト教カトリックはその長い歴史の間にキリスト教会が犯してきた罪を認め謝罪しています。

日蓮正宗もただ清らかな教団だというだけでなく、

間違ったところは素直に認めてこそ正しい宗教と言えるのではないかと思います。

このブログでは創価学会の現実を書くのがテーマなので、

なるべく日蓮正宗については触れないようにしていたんですが、

しかし創価の教学は日蓮正宗の教義を使っており、どうしても関わりがあるものなので全く触れないわけにもいかず、

また、「お前は日蓮正宗についてはどう思ってるんだ?」と気になっている人もいるかも知れないので、

それでここでは私の日蓮正宗についての考えを述べています。

特に本尊について、日蓮正宗では創価の偽本尊による害毒というものがよく強調されていますし、

日蓮正宗の本尊こそ唯一無二に正しくすごい功力のある本仏の境地として説かれてますが、

私は創価の本尊も日蓮正宗の本尊も同じだと思っています。

つまり、どちらも人の手によって作られたものに変わりはないわけです。

日蓮正宗では本物の本尊の功力を強調して説いてますが、それについては、

こちらの創価を脱会した人のブログが参考になると思います。

⇒ はぐれ雲~元創価学会員のつぶやき

 

この人が受持していた本尊は日達上人の前の日淳上人時代の日蓮正宗が言うところの「本物」の本尊だったのですが、

創価を脱会した後、引越しした時サイドボードに巻いてしまい込んでいた本尊を誤ってサイドボードごと粗大ゴミに出してしまったそうで、

本尊不敬で罰が当たるのではないかと不安だったそうですが、

その後10年経っても別に罰らしいものも出てこないで幸せに暮らしていると書かれています。

 また、我家の本尊も今年他界した伯父が受持していた本尊も、

日達上人の名前が入った日蓮正宗が言う「本物」の本尊だったんですが、

功徳らしいものが得られた実感は全くありませんでした。

それは創価で信心していたからだと反論されるかも知れませんが、

創価で信心していようと、かつては日蓮正宗が信徒団体として認めていた訳ですから、

日蓮正宗の本尊であるならすごい功徳が出てこなければおかしいと言えます。

原点回帰で釈迦の思想を学んでいると、

物としての本尊を拝むというのは本来の仏教のあり方ではないと言えます。

執着から離れることを説いているのが仏教なのですから、

本尊という物にこだわるのは、無執着を説く仏教の理念と矛盾していることになります。

まあ、それを言うなら日本のほとんどの仏教宗派は本来の仏教の理念に反することになりますし、

心の拠り所として人に安心立命を与える存在となっているのなら別に構わないわけですから私もそこまで問題にはしないんですが、

ただ、それなら「唯一正しい」という言い方や他宗を「謗法の邪宗」とは言わない方がいいと思います。

先にも書いたように、私は日蓮正宗はカルトとまでは思ってないので、

日蓮正宗で信仰したい人に対しては反対や批判はしません。

あくまでも信仰は自由なので、創価顕正会のような人に被害を与えるようなカルトでない限り、

人がどんな信仰をしても構わないと思っています。

 ただ、私個人としては、もし同じ日蓮系の宗教で日蓮宗日蓮正宗とでどちらかを選ぶとすれば、日蓮宗の方を選びます。

 

 

 

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孤独は不幸や悪ではない

少し前の一般紙の書評欄を見ていると、

宗教学者山折哲雄氏の著書『「ひとり」の哲学』についての書評が載っていたので読んでみました。

その中で著者は、「孤独死や独居老人など、単独であることが不幸や悪であるかのように言われる一方で、常に誰かと繋がっていないと不安という過剰な他者依存、非自立も社会問題となっている」とし、「それは本当の「ひとり」が確立できてないからではないか」と疑問を投げかけてこのような状況に警鐘を鳴らしています。

そして日本で「ひとり」という人間のあり方を 打ち立てた時代として、

鎌倉時代親鸞道元日蓮法然、一遍の生き様や思想を取り上げ、

人間は誰しも1人で生まれ、1人で死ぬ存在であるから、その原点に立ち返って、「ひとり」を確立して生きるべきではないかと結んでいます。

これを読んで、創価学会が孤独を不幸や悪であるかのように強調していることを思い出しました。

とある反創価ブログにも同じような指摘が書かれてあるのを読んだことがありますが、

創価学会創価組織に入って多くの仲間たちと群れていることが幸福なんだと主張することによって、奴隷信者を増やそうとしているわけです。

そして創価組織から離れることがどれだけ不幸なことであるかということを植え付けようとしているわけです。

そういう創価に洗脳されてなかなか創価組織から抜け出せない会員もいるようですが、

あいにくと私は創価組織から抜けても全然孤独とも不幸とも思ってません。

カルト集団に群れていても幸福を感じることもなく、ただただ苦痛でしかなかったのですから、そこから抜け出て不幸に思うわけもないです。

創価組織に依存していると、「ひとり」で生きていく覚悟もなくなってしまい、創価に利用されるだけの人生で終わってしまうでしょう。

 

 

 

心の拠り所となる「優良企業」としての宗教とは

前回の記事で、母は現在日蓮宗の信仰に傾いていると書きましたが、

日蓮宗とどういう接点があったのかというと、実は数年前から日蓮宗の納骨堂に父の遺骨を納めているからなんです。

我家の墓は長年父任せにしていたんですが、父は創価学会で信心してるから墓は放っておいて自宅で題目唱えておけば大丈夫とか思っていたらしく、

手入れもしないで放置していたようで、父が他界した時、墓を見に行ったらボロボロの状態でとても遺骨をそこへ納める気にならず、

墓ではなく納骨堂に納めることにしたのです。

墓の管理を父任せにしていた私も悪いんですが、納骨堂の方が管理も楽だと思い家族で話し合ってそうすることにしました。

その頃丁度創価学会の無料で借りられる納骨堂が空いてるからと学会幹部が言ってきたので、そこへ納骨することにしたのです。

その納骨堂は車で2時間ほどの場所で、創価の文化会館に併設されている納骨堂でした。

しかし、がめつい創価がいつまでも無料で貸してくれるわけがなく、

しばらくするとそこの納骨堂は閉鎖されることになり、遺骨をよそへ移さなければならなくなりました。

するとさっそく学会幹部が有料の墓苑や納骨堂のパンフレットを数種類持って申し込みを促すためにやってきたんですが、

どれも場所が遠いところばかりで、しかも金額も高く、その頃はもう創価の有料の納骨堂や墓苑に納骨する気はなくなっていたので、

自分たちで決めたところがあるからとそれらを断わり、遺骨をしばらく自宅に保管していました。

そして納骨堂の広告を探しているうちに、日蓮宗寺院の納骨堂の広告を見つけ、そこは納骨は宗旨宗派不問となっていて、

母もうちはもともと日蓮宗だからそこの方がいいと言ったので、そこへ納めることにしたのです。

その納骨堂は場所もそれほど遠くなく、最初にまとまった納骨料を納めますが、相場からしてそれほど高くもなく、

また、納骨する人は護持会というものに入会し毎年護持会費を支払いますが、

これが納骨堂の管理料になっていて、費用は毎年数千円でこれも特に負担になるというほどでもありません。

そして、毎年春に新たに1年間の会費の振込用紙と共に前年の会費の収支明細書が送られてきますが、

そこに会費がどういうことに使われたかという明細が具体的に細かく書かれてあります。

そこが収支明細を一切公表しない創価とは違うところですね。

その寺院には春秋の彼岸法要や盂蘭盆会法要と年に3回ほど行きますが、

母の体調がいい時は一緒に車に乗せていきます。

その母がその寺院の住職を気に入っていて、

「学会幹部の指導というと、いつも折伏の目標を達成しろとか新聞啓蒙しろとかエフを取れとか財務にたくさんお金を出せとかそんな話ばっかりで嫌な気分になって心の安まることがなかったが、ここのご住職は学会幹部のようなことは全然言わないから安心して話を聴ける」と喜んでいて、

それもあって日蓮宗の信仰に傾いている理由になっているようです。

 確かに母が言うように、創価ではいつもノルマ達成を迫られ、その上経済的負担まで過大にかけられているのでそれがストレスになっていましたし、全く心の安まることがありませんでした。

本来、心の拠り所となるべき宗教が、信者にストレスを与え心の安らぎを与えられないようではまとまな宗教とは言えないでしょう。

何しろ目的が信者をタダでこき使って搾り取るという創価学会なんですから、そうなるのは当たり前と言えます。

それから、その納骨堂のある寺院で法要に参加する時はいくらかお布施を包みますが、

創価のような1口いくらという決まりはなく気持ち程度の金額を包んでいるので負担になるほどではありませんし、

たくさんお布施を出せば大きな功徳が得られるというような話を住職がすることも全くありません。

だからストレスも全く感じません。

私は日蓮宗を特別正しい宗教とは思ってませんが、それでも心の拠り所として安心感を得られる宗教としては「あり」だと思います。

それが美輪明宏氏が言う「優良企業としての宗教」だと言えるでしょう。

だから母が日蓮宗の信仰に入っても別に構わないと思っています。

 あと、日蓮宗の人たちは創価学会のことをどう思っているのかとそれが気になってたんですが、

法要後の「お斎(おとき)」(法要後の会食)の席で、母が隣に座っていた信者と思しき老婦人と話をしている時、

創価学会ではいつも戦え闘争しろと言われて心の安まることがなかった」などと創価の批判を愚痴めいて言い出したんですが、

それに対して相手の老婦人は全く関心がない様子で聞いてました。

古くからの日蓮宗信者なら小樽問答での創価学会の汚いやり方に敵対心を抱いてるのではないかと思ってたんですが、

全く関心のない様子で、今や創価学会のことを何とも思ってないようでした。

全ての信者の反応ではないですが、まあ、こんなところではないかと思います。

つまり、日蓮宗では創価のような外に敵を作って信者の闘争心を煽るというようなことはしていないということです。

立正安国論に見る日蓮のカルト性』というサイトにも書いてあるように、

日蓮の思想そのものにカルト的なところがありますが、日蓮宗はこのカルト性がなくなっているか、またはかなり薄められているようです。

それはテレビ番組の『ぶっちゃけ寺』に日蓮宗の僧侶が他の宗派の僧侶と仲良く一緒に出演しているのを見ても分かるとおりで、

現在の日蓮宗にはカルト的な心配はないと言えるでしょう。

私は日蓮宗の信者になるつもりはありませんが、母が信じるのならそれは構わないと思っています。

ちなみに、今年執り行なった伯父の学会葬では、創価式の題目を唱える気になれず、

周りの学会員が唱える「なんみょう~」の創価式題目の合唱の中、

私は日蓮宗式の「なむみょう~」を唱えていました。

早口でも唱えられる「なんみょう~」に対して「なむみょう~」は早口では唱えにくく、

リズムが合わせにくいですが、それには構わず唱えてました。

隣に座っている学会員に気づかれないようにあまり大きな声は出せませんでしたが、

私としては創価式の題目を伯父に送るよりもまだましだと思っています。

 

 

 

創価退会後の生き方について

創価をやめた人がその後どういう信仰や宗教、あるいは思想信条を持って生きていくかは人それぞれでしょうし、私は人それぞれであってよいと思います。

自分の頭で考えた結果であるのなら、人に迷惑をかけたり被害を与えるようなカルト集団などでない限り、その人が最も自分の生き方に合うと思われる信仰なり宗教なり思想なりを選べばいいわけです。

私の場合は創価学会をやめたことを機に、日蓮信仰そのものから卒業します。

実は創価の活動家だった頃から日蓮の生き方や思想にはそれほど関心がなく、当時はどちらかというと、日蓮教学の基になった天台大師智顗の思想に関心があったほどでした。

なので、創価をやめた後まで日蓮信仰を続けようとは思ってないのです。

それにその日蓮の思想によって生み出されたとも言えるのが創価というカルトあるいは宗教詐欺集団なんですから、私にとっては日蓮信仰そのものがもはや信じる気になれないのです。

 現在は原点回帰というか、仏教の開祖の釈迦の生き方や考え方に共鳴するものがあり、釈迦の思想に傾倒しています。

それはテレビ番組の『こころの時代』を見たり仏教関連書籍を読んでいて受けた影響ですが、私は日蓮などよりも釈迦の思想や生き方に惹かれています。

ただ、母の方は日蓮信仰から離れることができないようですが、それは別に構わないと思っています。

親子であっても信じるものが違っていても構わないですし、それぞれに信じるものを持って生きていけばいいのではないかと思っています。

その母は同じ日蓮信仰を続けているといっても、実は数年前から日蓮正宗ではなく日蓮宗(いわゆる身延派)の信仰に傾いているようです(正式に信者にはなってませんが)。

 というのは、1つはうちの家系がもともと日蓮宗の信徒だったそうで、日蓮宗の方に親近感を持っているということがあり、もう1つは数年前、美輪明宏氏が日蓮宗の信徒であることが分かったことにもよります。

母は美輪明宏氏のファンで、美輪氏が出ているテレビ番組はよく見るんですが、その中で私も一緒に見ている時、美輪氏が題目を唱えている場面があって、それで日蓮系の信仰をしていることがわかったんですが、その時唱えていた題目の発音が日蓮正宗創価式の「なんみょうほうれんげきょう」ではなく、日蓮宗式の「なむみょうほうれんげきょう」だったので、日蓮宗の信徒なのかと思い、それで図書館から美輪氏の著書を借りてきて読んでみると、やはり美輪氏の家系も代々日蓮宗の信徒だったそうで、美輪氏も日蓮宗の信徒であることが分かったのです。

私は美輪氏に対しては昔はあまりいい評価をしていませんでした。

性同一性障害ということなので何か気持ち悪い人物だと思い、また、霊能力もあるということでいかがわしい感じもしていたんですが、テレビ番組での発言や著書に書いてあるのを見てみると話しに筋が通っていて重みがあり、また、霊能力を売りにして信者を集めて金儲けをするというようなこともしてないので、今では創価の大幹部などよりよほど信用できる人物だと思っています。

美輪氏の著書の中で特に感銘を受けたのは次の言葉です。

宗教は企業です。
その企業の中には優良企業もあれば、「お金をもってきなさい」としか言わないインチキ企業もあります。
尊いわけでも偉いわけでも神秘的なわけでもありません。

信仰というのは教祖もお金も関係ありません。
神仏を信じ、仰ぐことです。
そしてまた、日常生活の中で憎愛喜怒哀楽を体験し、反省、分析、思考し、やがては自分自身をも信じ、仰ぐ、価値のある人に磨き上げていく作業を信仰というのです。

美輪氏も言っているように、信仰と宗教は違うんです。

信仰をすればいいのであって宗教はなくてもいいのです。

必要だと思う人だけ宗教にすがればいいのです。

昔、創価学会は外国人はキリスト教イスラム教など宗教に入っている人が多いが、日本人は特定の宗教に入ってる人は少ないと言い、日本人は無宗教者が多いから信仰心が希薄だなどと教学書などに書いてましたが、

これなどは信仰と宗教を混同している姿だと言えます。

というよりわざと混同しているようです。

無宗教だから信仰心がないとは言えないでしょう。信仰は宗教に入ってなくてもできるものだからです。

だから別に無理して特定の宗教に入らなくても、それぞれに何らかの信仰を持って生きていけばいいのではないでしょうか。

もちろん創価などが言うような謗法などというものもないのですから。

それぞれが自由に自分に合う信仰なり思想なりを信じていけばいいのです。

話が少し脱線してしまいましたが、そういうわけで創価を脱した後は、それぞれに自分の生き方に合う道を生きていくつもりです。

 

 

創価をやめて思うこと

トウガラシです。

引っ越した直後は整理作業や転居後の手続きなどで忙しかったので、実感が湧かなかったんですが、

一息ついたら、創価の環境から離れられたという実感がじわじわと湧いてきているところです。

そして今私は創価という手枷足枷首枷を外して自由の身になった気分です。

私にとって創価という存在は苦しみの原因でしかなかったなと改めて思えます。

創価をやめたら地獄に堕ちるのではないかとか不幸な目に遭うのではないかと不安になる人もいるようですが、私にはもはやそんな心配はありません。

ネットを見れば創価をやめても罰など出なかったという脱会者の声で溢れてますし、

私の創価での人生においても、一生懸命学会活動に頑張っているのに一向に功徳が出てこないという会員ばかりを見てきてるので、創価には功徳がないということは分かってますし、功徳がないところには罰などもないですから、もはや「創価をやめたら不幸になるのではないか」などと不安に思うことなど何もないからです。

また、以前にある幹部が会合での指導で、創価をやめても「やっぱり創価学会にいた方が良かった」と言って創価組織に戻ってくる会員もいると話していたことがありましたが、私が創価に戻るなどということは絶対あり得ません。

第一、創価に戻りたいと思うその気持ちが理解できないですね。

創価をやめて後悔するようなことがあるんでしょうか?

脱会したのにまた創価に戻りたいと思うのは創価から給料をもらって生活していた創価職員くらいのものじゃないかと思いますがね。

もし一般会員の脱会者の中に創価に戻りたいと思うような人が実際にいるとすれば、そういう人はよほど他にやることもない、世の中のことを何も知らない寂しい人間なのではないでしょうか。

あいにくと私には創価以外にやりたいことがたくさんあるので、創価に戻りたいなどと思う発想さえ湧きません。

今のようなインターネットの発達した時代ではさまざまな情報が得られるわけですから、そのようなさまざまな情報に触れていけば創価に戻ることがいかにばかばかしいことであるかすぐ分かると思いますよ。

せっかく創価から抜けることができたんですから、いつまでも創価に考えを縛られるのでなく、新しい世界に目を向ければいいのではないでしょうか。

 

 

転居完了と創価組織退会のご報告

遅くなってしまいましたが、転居と創価組織退会の報告をします。

無事、引っ越しを済ませ、学会本部宛に退会届を出しました。

慌ただしい年の瀬での引っ越しだったのでなおさら慌ただしく、

やっと一息ついてブログに書き込んでいるところです。

これで私たち親子は晴れて創価組織から抜けることができました。

まあ、実際に統監の名簿から私たちの名前を消すのかどうか分かりませんが、

実際に創価組織と関わることがないなら別に統監名簿に名前が残っていようが構いませんがね。

まだ書きたいことはありますが、時間がないのでとりあえずご報告まで。

 

 

 

退会宣言!

突然ですが、近日中に創価学会を退会します。

このように書くと唐突に思われるかも知れませんが、

今年の3月に伯父の葬式を済ませた後から

退会に向けて着々と準備をしていたのです。

本来ならもっと早く退会したかったのですが、

前にも書いたように、今住んでいる実家の地域には親の代からの知り合いの学会員が多く、そういう人間関係があって退会できないでいました。

それで、学会を退会するにはよそに引っ越すしかないと思い、

何とか年内には決着をつけたいと、引っ越しの準備を進めてきたのですが、

やっと年の瀬までには間に合わせることができました。

それでなくともこの地域は不便な場所で、

例えば病院は近くにあっても医療設備が整ってないため

救急搬送する際も隣の市の病院までいかなければならないなど、

そういう点でも不便な地域だったので、

 前々からよそに引っ越すように母親を説得していたのです。

母親も創価の組織には愛想を尽かしており、

学会を退会することには反対してないので、その点は問題なかったんですが、

それでも引っ越すことには反対していました。

というのは、伯父を残してよそに引っ越せないと言って、

今までしぶっていたからなんです。

伯父については時々愚痴めいたことを言ってましたが、

それでも特に伯父が認知症になって施設に入ってからは

伯父のことが気がかりでよそに引っ越す気が起きなかったようです。

ですが、その伯父も3月に他界したので、もはやこの地域に留まる理由もなくなったので、やっと引っ越す気になったようです。

この地域の学会員にはもちろん退会することは言いません。

聖教新聞の配達は止める必要があるので新聞担当者には引っ越しのことは伝えてますが、本当の引っ越し先は伝えてません。

創価組織はしつこいので本当の住所を教えるとどこまでも追いかけてくるので

それは絶対教えられないです。

引っ越す時に学会本部宛に脱会届を出します。

その脱会届はネット上で公開されている書き方を参考にして書きました。

あとは郵便局に出すだけです。

そういう訳で、今は引っ越し準備で忙しいので、

引っ越しが完了するまで、このブログは休みます。

来月の中旬頃には引っ越しと創価組織からの退会について報告できると思います。

詳しくはその時書きます。

では、では。

 

 

 

 

 

 

 

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非常識になってしまう創価組織の現実

創価聖教新聞には「常識豊かに」などと指導を書いてますが、実際には熱心な学会員ほど常識のない人間が多いものです。

そういえば思い出しましたが、

青年部の頃、地区座談会で地区部長が

「うちは団地なのであまり大きな声や音は出せないんですが、

それでも日々の勤行唱題だけは”声仏事を為す”で、

これを疎かにしていてはいかんと思って、

まず朝早く起きて大きな声で朗々と勤行唱題をし、

鉦もよく響くようにガンガン叩いて、

清々しい思いで行なってます」

などと得意そうに語ってましたが、

どれだけ隣近所に迷惑をかけてるんだと思ってしまいますね。

自分は正しいことをしてるんだから、隣人は我慢するのが当たり前とでも思っているようですが、というより、そこまで気が回らないんでしょう。

自分は正しい仏法を行じてるんだということだけ考えていて、

それが周りにどれだけ迷惑になっているかということを想像さえできないんだと思います。

その地区部長は何でも非常識というわけでもなく、普段は常識もあるんですが、

創価のことや信心活動のことになると常識的に考えられなくなるようでした。

これはその地区部長に限らず、多くのバリ活会員に言えることではないでしょうか。

それは、どんなに普段常識のある人でも、創価組織に入っていると、

創価の非常識な考え方に染まってしまい、非常識な人間になってしまうからなんでしょう。

創価はそういう非常識な会員による迷惑行為などのトラブルに対しては

「それは会員個人の資質の問題であって創価学会のせいではない」などと

何でも会員個人のせいにしてますが、非常識にさせているのは創価学会なんです。

非常識な学会員であっても創価組織に関わっていなければもっと常識豊かになっている人も多いと思います。

そういう意味においても、創価組織に関わったために人間性を疑われ人生を損してる人は多いと思いますよ。

 

 

 

罵詈雑言を吐くしか能がない創価のネット活動家

何やら創価のネット活動家が吠えてるようですが、いくら吠えたところで、負け犬の遠吠えでしかないでしょう。

このネット活動家の得意の言葉は

「卑怯者! 臆病者!」と「うそつき!」

で、よく連発してますが、

そう言ってる当人も本名を明かさず素性を隠してるんですから、

人のことを卑怯者・臆病者呼ばわりする資格はないでしょう。

それから、人のことをうそつき呼ばわりしてますが、どっちがうそつきかというのは、

このブログを見てる人ならよく分かっていると思います。

創価の組織は人間主義で温かい」だの「世界中に学会員が増え続けている」だの「学会員は皆功徳にあふれている」だのと、現実を無視した聖教新聞の見え透いた記事をそのままコピペしたような、創価を美化した話ばかりを無責任にネット上で垂れ流しているこの創価のネット活動家こそ「大うそつき」と呼ばれるべきです。

それから、自分のブログや反創価ブログのコメント欄で、いかに自分が御書をよく勉強しているかということを自慢し、創価こそ正義だとか我こそ正義だとか主張してますが、そんなに御書を勉強しているのなら、その御書の一節を引用しながら、創価のどこが正しいのか、どこが正義なのかということを理路整然と説けばいいものを、書き込んでる内容はと見れば罵詈雑言を吐いて相手を罵倒しているだけか、あるいは質問をはぐらかして逃げ出すかのどっちかでしかないようです。

 要するに、罵詈雑言を吐くしか能がないわけです。

しかしそれは当たり前のことで、「世界最高の生命哲学」だとか「創価哲学」などと言っていても、創価の教義はすでに破綻状態なんですから、それを御書の一節を引用しながら論証することなどできるわけがないからです。

だから創価のネット活動家は罵詈雑言を吐いて相手を威嚇するだけか、質問に答えず逃げ出すかのどっちかしかできないんです。

いくら創価が「世界広布新時代が到来!」などと威勢のいいことばかり言っていても、

現実を見ればそれがウソであることはすぐ分かるでしょう。

その現実を反映しているものが『対話を求めて』なんです。

そのブログを見れば創価の現実が分かることでしょう。

 創価の提灯持ちであるネット活動家がいくら吠えようが喚こうが、反創価の動きはもう止められないということです。